ビートルズ 2 2010.12.31
唯一の日本公演に行けなかった。
中学の中間テストとかぶっていた。当時、中間テストをサボること自体がとても出来ることではなかったし、まして、ビートルズを見るために東京へ行くことがその理由となれば、どのようなことになっていたか・・・。
今となっては、何を置いても、行っておくべきだったと思う。つくづく、後悔している。
大人になり、子供が出来てから、子供には出来るだけ「本物に触れさせたい」と思い実践しているつもり。特に、コンサートや舞台、スポーツ観戦などは行かせるようにしている。
本物の持つ空気感や感動を身をもって知る人になって欲しいからだ。
その後のビートルズの活動は、どんどんインドに傾倒したり、電子的な音になったり、よくわからなくなって来たので、しばらく遠ざかっていたが、やはり、再び聞き出すと、惹かれてしまう。
やはり、私の心の音楽になっているのかなあ〜?
そして、フォークソング。
ビートルズ 2009.7.5
ビートルズを知ったのは何歳ぐらいだったか・・・?
小学校5年か6年の頃だと思う。6年生の時、1963年で、彼らがレコード(この言い方も古いモノになったなあ~)デビューしたのが1962年の10月と言うことなので、きっと、この頃に知ったのだと思う。
ラジオで聞いたのがはじめであったと思うが、最初に聞いたのは「ラブミードゥ」ではなくて、「プリーズプリーズミー」だったんでは無かったかな?と
思う。
とにかく、衝撃だった。それまでの曲とはちがった!
スタイルも違った。
それまでに聞いていた洋楽は、以前にも書いたが、一人の歌手の歌でグループが演奏しながら歌い、そして、それが今までにないようなリズムとメロディだった。
その頃から、音楽とはイコール、ビートルズというような感じになり、
次に出る曲はどんな曲なのか、毎日ワクワクしていた記憶がある。
中学に入ってからはよりその傾向が強くなり、また、新しいビートルズ友達も増え、ビートルズの話ばかりしていた。
「プリーズ・プリーズ・ミー」
「ウィズ・ザ・ビートルズ」
「ビートルズがやってくる ヤア!ヤア!ヤア!」
「ビートルズ・フォー・セール」
「4人はアイドル」これは「Help!」「Yesterday」が入っているLPで、映画も見に行った。
「ラバー・ソウル」は「ミシェル」「ガール」や「ノルウェーの森」などのバラッドが印象的。
「リボルバー」ジャケットが線画でそれまでの写真というイメージからごろっと変わった。曲もすごく複雑化してきた。
ラバーソウルの頃からインド音楽の影響が出始め、このリボルバーでは電子音的な音が増えてきた。
音楽的にはどんどん深く入り込んできた。という感じだった。
1966年6月30日~7月2日の日本武道館でのコンサートが日本でのビートルズの唯一の5ステージで、これに行きたかったが・・・・。
御三家 2009.5.22
御三家が登場した。
橋幸夫、舟木一夫、西郷輝彦の三人だ。三田明というアイドルも居たが、彼は御三家ではないらしい・・・。
ほかにも、久保浩、望月ひろし、梶光夫、安達ひろし、といった(名前が正確かどうかは、わからないが)アイドルたちが居た。
少し前には、守屋浩、かまやつひろし、なども人気があった。
日劇ウエスタンカーニバルからの流れでは、ミッキーカーチス、山下敬二郎、平尾昌章、小坂一也なども。
しかし、その前に、三人娘「美空ひばり」「江利ちえみ」「雪村いずみ」が居た訳で、この三人は、人気だけではなく、歌も上手い、芝居も上手い、と三拍子そろっていた。「美空ひばり」については、歌謡界の女王と呼ばれ、今でもその歌のうまさに異論は無いどころか、いまだに彼女を超える歌手が出てこないと思える。
「江利ちえみ」はこれまた、抜群の歌唱力で、代表曲の「テネシーワルツ」などの洋楽も「新妻に捧げる歌」などの歌謡曲もいわゆる民謡などの邦楽もすべて歌いこなした。
「雪村いずみ」は日本人離れしたバタ臭さで歌も上手かったが、そのスタイルも抜群!でちょっと、違う人間。だった。
この三人娘が居て、その後の御三家や中三トリオなどへアイドルの歴史はつながっていったように思う。
そうこうしているうちに、ビートルズの登場となるのだ
洋楽 2009.4.29
姉が亡くなった年(1960年)の春休み、母と兄と3人で母の実家である東京深川へ行った。
自宅の能登川から米原へ行き、そこから急行に乗り換えて東京へ向かった。結構混んでいて、ある乗客の方が親切に我々兄弟を座らせてくださった。
そんなことが断片的に記憶の片隅にある。
7,8時間掛かったのか、暗くなってからイトコが迎えに来てくれている新橋駅に着いた。
当時の都電に乗って江東区へ向かう途中、銀座を通ったのだが、街が明るい、ネオンがまばゆい、音が溢れていた。
そんな、音の中から聞こえてきたのが♪チューチュートレイン♪と唄う「恋の片道切符」。たぶん、一番最初に洋楽として意識した曲だと思う。それまでにも、「バナナボート」やプレスリーの「ハートブレークホテル」などは聞いていたはずだが、やはり、私の洋楽の原点はこの「恋の片道切符」だ。
当時は、日劇ウエスタンカーニバルがものすごい人気で、ミッキーカーチス、平尾昌晃、山下敬二郎と言ったスターも生まれていた。
私自身は、直接この舞台を見たわけでもなく、ニュース映像で見ていただけである。
しかし、その後からは、洋楽がどんどん日常に入ってきて 、TVでも「ザ・ヒットパレード」「ホイホイミュージックスクール」「シャボン玉ホリデー」などで盛んに洋楽をやっていた。
ヒットした年代は判らないが覚えているのは「朝日のあたる家」「ドライボーン」「ミスターベースマン」「ヘイポーラ」「バケイション」などなど、特にザ・ヒットパレードは指揮者のスマイリー小原の指揮ぶりが楽しかった。
そして、日本の歌謡曲もヒットが沢山あった。いわゆる御三家の登場だ。
いつの頃から音楽を意識し始めたのか・・・。2009.4.28
私には、姉が居た。「居た。」と書いたのは、確か、私が小学2年生の冬に亡くなったからだ。享年18歳だったと思う(幼かった私は姉の歳など意識したことは無い。)名前は「春代」。腎臓病だった。昭和33年か34年のことである。今なら、腎臓移植や透析治療などの方法により、あの若さで死ななくてもよかっただろう。 湿っぽい話から入ってしまった。
その姉は歌が好きで、いつも歌をくちずさんでいた。はっきり覚えているのは美空ひばりの「港町十三番地」。当時はテレビも無く、ラジオから聞こえてくる流行歌がみんなの心を和ませていたのだろう。姉も色んな歌を覚え、唄っていたのだが、私の耳に今でも残っているのは「港町十三番地」なのである。<あ~あ~、みなとま~ち、じゅ~うさんばんちい~>。思えば、これが私の流行歌の出発点なのかもしれない。
他にも、ラジオから聞こえてきたのは、「一丁目一番地」「鐘の鳴る丘」など。時代的にどちらが先か後か判らないが、耳に残っている。
その内に、我が家にもテレビがやってきた。今の天皇陛下と美智子皇后のご成婚をテレビで見たのを覚えている。当時としては早いほうで、よく近所の人が見に来ていた。(後に母から聞いたのだが、当時、受像器の価格は14インチで14万円ほどしたらしい・・・我が家はかなり、裕福だったようだ。)それまでは、能登川駅の駅前広場に街頭テレビが在り、多くの人と野球や力道山を見ていた。駅前広場といえば夏には仮装盆踊り大会などがあり、参加者はおもいおもいに仮装をして踊っていた。ちょうど、この頃だと思うが、ある年の参加者の中に全身をタールかなにかで黒く塗って「冒険ダン吉」よろしく踊っていた近所のおじさんが居た。
コンテストの結果、栄えある優勝に輝いたのだが、その夜に亡くなってしまった。皮膚呼吸ができ無かったのが原因らしい。
横道に逸れてしまった。
テレビが我が家にやってくると、一気に音楽が家中に溢れだした。ドラマの主題歌、歌謡番組、コマーシャルソングなどである。
歌番組では、藤山一郎「長崎の鐘」、東海林太郎「野崎参り」、灰田勝彦「野球小僧」、ディックミネ「ダイナ」、岡本敦夫「高原列車は行く」、霧島のぼる、伊藤久夫「イヨマンテの夜」、近江俊郎「湯の町エレジー」、淡谷のり子「雨のブルース」、渡辺はま子、美空ひばり、若原一郎「お~い中村君」若山彰「喜びも悲しみも幾年月」曽根史郎「若いおまわりさん」青木光一「柿の木坂の家」江利チエミ「テネシーワルツ」雪村いずみ「ブルーカナリー」松山恵子「だから云ったじゃないの」などが生中継で唄っていた。

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